Even If I Can't Love You
巴里千佳


 夜半に降り始めた雨も上がっていた。

 太陽は赤から黄色に変わり、窓ガラスから射し込んだ光は室内へと通じ、染み一つ無い壁を晒して漂白じみた色を作り出した。

 そして、少佐はデスクワークに飽きていた。

 引き出しにストックしてあるタバコに火を点けたかったが、真新しいコンピューターの前に吸殻を山と積むのは気が引けたし、古参の部下は嫌煙権を臆さなくなった。

 ドア近い机に陣取るBの頭をぐしゃぐしゃと引掻いてから、Aに外出の旨を伝えて出掛けた。

  居眠りを怒られたかと慌てるBも、宥めるAも、まだ日常の風景だった。

 その時、無人の机で電話が鳴った。





 外に出た途端、清々しい空気が咽喉に触れ、不健康な習慣を暴露するかのように咳が出た。

 水溜りに太陽の光が燦燦と跳ね返り、春の色が一層きらきら引き立つ。

 泥が掃き清められた玄関口を固めるように寄せられた紫パンジーが露に濡れ、その後ろにあるまだほっそりと青いチューリップの蕾は、新米兵士の掲げる銃剣の様だ。

 湿ったコンクリートに腰を下ろし、タバコを咥えて着火しようとした時、風もないのに炎が大きく揺らいで消えた。中身を振って、また火を点けようとした時、後ろの自動ドアが音を立てて開いた。

「少佐、ここにいらっしゃったの?」

 変声期を疑うほど甲高い声が降りかかってきた。

「何だ、G」

「お電話が入りました」

「誰だ、部長か?新しい任務か?」

「Nein――」一呼吸おいてからGは言った。「伯爵です、少佐」

 怒鳴られるのを予感して、Gは細い肩を縮めた。

「少佐は外出中だ」

「でも携帯に――」

「構わん、着信拒否になっとる」

「ああ、それで私の携帯じゃ通じないんですね」

 おどけて肩を竦めてみせたが、内心傷ついていた。でも、この場は譲れなかった。

「お願いです、出て下さい」

「出てどうしろというんだ」

「なら、怒鳴ってくださいっ。きっと伯爵も元気を出しますよ」

「元気なんて――・・・!?」

 そう言って少佐が立ち上がったお陰で、目の前の景色が遮られ、Gは一瞬で自分が畏縮した気分になった。三段下に立っていても少佐の目線はGより高い。自然、見下ろすような格好になった。

「どうしていきなりそんなことを言うんだ」

「女の勘です」

「当てになるか」

「出ていただけますか?」

 なおも粘るGにやれやれと首を振って、タバコを上着のポケットに押し込んだ。

「五分だぞ」

 空気はなおも透明に瑞々しかった。





 未処理の書類の束の上に受話器が伏せてあった。表示板に赤ランプと通話時刻が点滅している。6分04秒―――

「俺だ」

 ややあって反応があった。

「少佐?」

 電話が遠いのかと思った。覇気を感じないかすれた声が雑音と混ざる。

「今どこに居る?」

「聖バーソロミュー病院」

 一瞬、最悪の事態が脳を掠めた。

「あ、いや違う、私じゃないんだ、いや、ひょっとして、君自身の心配かな?」

 何を言うかこの倒錯者、怒りを押し殺しながら受話器を睨んで叫んだ。

「ふざけてないで用件を言え!言わんと今すぐ切るぞ」

「切らないで、ただ声が聞きたかっただけなんだ・・・・・・君ならどうするか」

「何なんだ一体」

 間が空いた。

 そして、枯れた声が届いた。

「母さんが死んだんだ」

 気がつかないうちに受話器を握り締めていた。正気に返ると、いつの間にか自分が椅子から立ち上がっていたのに気付いた。

「お前はどうするんだ」

 愚問だと、口に出してから思った。

「どうしていいか分からない」

「なら先に式場に行け」

 今度はその言葉が何を意味するか、頭が理解していなかった。

 住所を頭の中に叩き込み、乱暴に受話器を置いた。

「Aはいるか、空港まで送れ!」





 Aも既に異変を感じていた。伯爵の方からボンに現れることはあっても、こちらから動き出すなどついぞ無かった。それが、電話一本で呼び出されたとあっては―――・・・・・・

「何を考えとるんだ、部下A」

 上の空で運転していたところに、助手席から少佐の声が飛んだ。

「余計な心配をせんで宜しい」

 そう言って窓を開け、ポケットの折れたタバコにやっと火が点いた。煙と一緒に胸のもやもやした物も出て行けばいいとの願いも虚しかった。

 煙が外へ出て行く代わりに、高速の風が髪を巻き上げた。

「お袋さんが亡くなったそうだ」

 ああそれで、とAはうなずいた。で、少佐が行く必要、あるんですか。

 アクセルを踏む足に力が入った。

 昔から聞きたかった事が、ずっと聞けなかった。今なら銃殺にはなるまい。

 ちぇっ、とAは心の中で舌打ちした。これじゃ、少佐の弱みにつけこむようじゃないか。

 少佐は相変わらず窓の外に向かってタバコをふかしていた。

「少佐、・・・・・―――伯爵を愛してるんじゃないですか?」

 途端、少佐が振り向き、Aは真っ青になった。ハンドルが大きく傾いだ。

「止まれ!」

 反射的にブレーキを踏んでしまってから、車線からゆっくりと外れ、停車した。灰がシートに散っていた。

「俺が運転する」

 ハンドルを握り締めていた手が汗ばんでいた。





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