深 く 潜 る




 昔海兵に志願した友人が、今は潜水艦乗組員になっている。補給を終え、三日後には出航という夜に、急に彼から誘いがかかった。

「ボンで美味い飯が食えていい酒が呑めるところを知らないか?」

「ハンブルグで飽き足らないとは贅沢な奴だな」

 受話器を挟み、書類を脇に置きながらからかうと、

「お前は塩の匂いを嗅ぎながら食事をしないからそんな事が言えるんだ。息をするだけで塩漬けになっちまいそうだ。なあ、すぐ来い」

「それならボン支部までお前が来ればいいだろう?」

「お前は俺に車の操縦をさせる気か?ハンドルを握るとアウトバーンが戦場になるんだぜ。つい昨年の今頃もうっかり高速で逆走してな、気が付いてUターンした三十秒後に車が横を通り過ぎたんだ。あの時は死ぬかと思った」

「この間はうっかり演習場に入り込んで危うく跳弾を受けそうになって死ぬかと思った、って言ってなかったか?その前は、」

「ああ?そんな事もあったか?………覚えてないな」

 じゃ、来いよ、と言ったがすぐに電話が切れた。

 やれやれと思ったが久しぶりに話の分かる悪友に会えるのだ。そのくらいの手間を惜しむ気はなかった。

 水兵帽が似合ったあいつのことだ、そろそろ白髪も混じるようになった今は、階級章入りの海軍の軍服がさぞ似合うだろう。

 馴染みの標識を目指しながら携帯を取り出そうとした時、おもわず自分を罵りたくなった。

 一年のうち十日ほどしか陸にいない男が連絡をとる手段など持つはずもなかった。



 久しぶりに会ったそいつは海軍中佐のくせに随分と白い膚をしていた。

 身についていた軍の仕草所業と制服がなければ、すぐには分からないほどに。

「なんだお前、随分生っちろくなりやがって」

「貴様こそなんだその長髪は、それでも軍人か!恥を知れ!」

 巨大なグラスにビールを注ぎ、食事が来るのを待ちきれず底を空け、すきっ腹で余計に酔いが回り、震える手が注ぎそこねて酒をこぼし、こぼし。その度に馬鹿みたいに騒いで毒舌をふっかけた。

 人の性質なんてものはたかが十年程度では変わらないもので、こうして任務の合間を縫って会うごとに、つまらない事で揉め事を起こすのが挨拶代わりで、そして、お互いそれを楽しんでいた。

 そいつが結婚するまでは。





 それは確か、今から七年ほど前の割と暖かい冬だった。

「クラウス、紹介するよ、ぼくの婚約者だ」

 そいつが「ぼく」だなんていう所を初めて見た!

 嬉しそうな顔をして、恥ずかしさで顔を伏せる彼女と俺の顔を交互に眺めて得意そうに声が上ずった。

「本気で愛してるんだ、明日にだって結婚したいさ」

「そりゃおめでとう。式はいつだ?」

「出来れば今年中に。来年の春にはまた出航だからな」

 そう言って押し殺したような溜息をついた。

「そうしたらもう半年も彼女に会えなくなるんだ。本当に辛い気分だ。休みになる度に彼女の胸に飛び込んでいかないと辛くて淋しくて死んでしまうよ」



 その言葉を彼は七年間実行し続けた。

 休暇が取れるたびに妻の住む高層マンションに飛んで帰り、歓喜に震える胸に顔をうずめる。

 その様を昔の様にからかうと、

「お前、羨ましいんだろ、そうだろうな、俺はこの七年間まるで新婚時代のような生活を続けている幸せな男だものな」

 別にそんなつもりで言った訳じゃないのだが。

「なら淋しいんだろ。いつまでも片意地張って独身のままでいるからだ。結婚すればお前だってすこしは人並みの幸せって物が分かるかもしれんな?ん?」

 あるいはもしかしたらそうかもしれない。

 ただ、いつものように悪態が聞けなかったのが淋しい、という意味でしかなかったが。

 いつしか小さな赤ん坊が生まれ、会うたびに大きくなるその成長に目を見張った。

 どこにでもいる子煩悩な父親と同じように、身分照明のIDカードに妻と子供と自分の三人で撮った写真を持ち歩いていた。

 その様子が、あまりに自分とかけ離れていったのが、それも、淋しかったのかもしれない。



「お待たせしました。料理はこれで全部ですね?」

「ああ、後、揚げたイモの追加を頼む。こいつが気に入ったようでね」

「何言ってんだ、ほとんどお前一人で一皿食べたんじゃないか。相変わらず好きだよなぁ」

「うるさい」

「イモ・クラウス」

 そう言って友人が体を震わせて笑ったので、テーブルの上のグラスの中で、泡立ったビールがふらふらと揺れた。

「でもあんまり楽しかった、お陰で気づかないうちに大分長居したな」

 そう言われて、腕時計を見たら、七時半を差していた。

「なにを言っている、まだ七時二十三分四十五秒だ」

「でも外はもう暗いぜ」

「そんな筈ないだろう………」

 ブラインドを指で差して窓の外を見ると、真っ暗なガラスを水滴が筋を作って伝っていた。

 室内の騒がしさに気が付かなかったが、相当降っていたようだった。

 窓越しに雨がアスファルトをあられの様に叩く音が聞こえてきた。



「これは酷いな。タクシーを呼ぶからそれで帰るか?」

「なんだ、お前が送ってくれるんじゃないのか」

「これだけしたこま呑んでおいて送れる訳がないだろう」

「じゃあ俺ァ帰らない」

「何駄々こねてんだ。奥さんが心配するだろ」

「いいよ、もう」

 砂を噛むような思いで口の中のイモを噛み、無理矢理飲み込んだ。

「奥さんと何かあったのか」

「いや、違う」

「じゃあ何だ」

 友人がグラスの中に残っていたぬるいビールをごくりと飲み、それでもなお掠れた声を潜めた。

「聞いてくれるか」

「ああ」

「誰にも言うな、特に妻にだけは。今でも本気で愛してるんだ。今だって飛んで帰って色っぽさに磨きがかかったあいつの顔を見たいんだ」

「この期に及んで惚気るな」

 友は観念したように目をぎゅっと瞑り、息を細く吐き出した。

 そしてその息が漏れる音よりも小さな声で言った。

「俺はあいつに合わす顔がない。そして、お前にも軽蔑されてしかる人間だ。それでも、聞いてくれるのか?」

「誓うさ」

「じゃあ、言おう」

 友の顔は暖かい空気の中で早いペースで酔いが回っているにもかかわらず、青白く見えた。

「俺は、あいつの愛を裏切ったんだ―――」



 潜水艦という乗り物はどこよりも小さな国家だ。

 出て行くことの許されない、閉鎖的な国家。



 故に束の間の自由を手に入れた時、変わらず迎えてくれる恋人と出会い、幸福を掴んだ。

 愛し合える時間は微々たるものだが、それ故に色褪せる事のない。

 会える日を心待ちにし、僅かな時間を二人で共有する。



 なのに、



「耐え切れなかったんだ、狭い灰色の壁と付き合せている生活と冷たい水に浸かった時間に負けて、俺は―――同僚と―――」

「それ以上言うなよ、余計な自虐は心身ともに毒だ」

 頭を抱えた友人の前で、ビールのジョッキを傾けて新たに注いだ。

 白い泡がうっすらと液体の上に浮かび、消えていく。

「軍隊ではよくあることだ、気にするな―――それに、そういう雰囲気っていうのがあるだろ。閉鎖的な環境で友人との友好を保ちたかったらそうなっても可笑しくない」

「でも、お前はそうじゃないよな」

 注がれた酒を機械的に飲み干して、友人は言った。

「安易な快楽と友好なんて、お前には関係なさそうだ」

「安易かどうかなんて単なる自分の価値観でしか計れないだろ」

「そうだよ、お前って奴は小利口なんだよ」

 両手で抱えた頭がごとんとテーブルに落ち、呻き声が口から流れた。

「また海に戻ったら………俺は今度こそ自信がないぜ。海は広すぎて深すぎて………迷子になる」

「おい………寝るなよ」

「………………寝ないさ」

 そう言いながらも、頭を起こす気配はなかった。

「小利口なもんか、―――現にこうやって勘定は俺持ちじゃないか」

 そう呟いてか、友人を抱き上げようとした。

 ぎし、と椅子が軋んで、組んだ足がテーブルにあたりコップに突っ込んであったフォークが転がり落ちた。





「もう家に着くから座席で吐くなよ」

 後部座席に二人で座り、抱えるようにして支えながらタクシーの窓の外を見た。

 すっかり暗くなった空から大雨が降って、ぶら下がる間もなしに水滴が落ちていく。

「ああ、すまない」

「家には俺が連絡したから」

「………ごめん」

「大丈夫か?飲めもしないのに俺に合わせて呑むからだ」

 顔色はだいぶ良くなった友人を抱えるようにして車から降りる。

 降りた瞬間、どしゃ降りの雨に濡れて、一気に酔いが覚めた。

 友人が体を冷やさないよう傘を片手で持ち、玄関前で待ち構えていた執事からタオルを奪い取った。

「汚れるだろうから俺の部屋を開けておいてくれ」

「分かりました。ご主人様は寝具はどうなさいます?」

「どうとでもなるさ」

 そう言って体も拭かずに友人を抱えたまま邸の中に入った。



 部屋に入って濡れた上着だけを脱がせると、大分気分が良くなったらしい。

 自分のベッドを占領してすやすやと眠り始めた。

 全く、昔っから争いに巻き込まれやすい癖にナイーブな人間ではあったが。



 しかしそれでもまだこいつは幸運といえる。

 一年に数回逢えるか逢えないかで、陸にいながら連絡も取れず、おまけに逢う時には人目を避けて潜まなければならないのは、ひょっとして、海よりも深い隔たりがあるのではないだろうか。





「………メァリ………」

 はっとして振り向くと、微かに鼾をかいていた。

 安堵して息をついてから、自分も用意した毛布に包まった。



 先ほど奴は安易な快楽といったが、どうしてそんなものを求められるのか。

 相手に自分の一挙一投足が筒抜けであるのに、どうして安易な行動をとれよう。

 それはこちらにしても同じで、逢わない間はただ一枚の壁を隔ててお互いを監視しあっている。



 そんな男を選んでしまった俺のどこを小器用だというのだろうか。







END



 なんかこれだけの文を一気に書けるということにちょっと自分でも驚きましたが。それでも5時間以上はかかりました。
 これくらいか、これよりちょっと短めの小咄をテーマを一つに絞って書いていくと楽チンですね。
 ネタは結構ストックしてあるので、あと3〜4つ書けると思います。

 これを書いた一ヵ月後くらいに年末の番組で潜水艦乗組員と彼女の浮気、みたいな結構興味本位の番組をたまたま見てしまい、無性に腹が立ちました。彼氏が可哀想じゃんか!と本気で怒りました。そりゃ外の世界の方が誘惑が多いけどさ………そこを耐えてじっと待っててあげないと。現実って酷。そして美しくも無い。




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