Love is like a cup of coffee.
Time takes away its fever.
「美味しいコーヒーの飲み方」
食事に手間暇をかける理由の見つからない人間にとって、ファーストフードやインスタントは最も手軽な手段として最も余計な心配の要らない料理だ。
何時何処で食べても同じ味で、当たり外れで一喜一憂することもない。
運良く気に入って、値段もそれなりであるなら、毎回悩んだり冒険したりせずその平凡さを快く受け入れ、変わらない味を楽しめばいい。毎日、何年でも。
片手に乗る程小さいネスカフェの小ビンは、ラベルが邪魔をして中身の残量が確認出来ない。左右に振ると粒がガラスに当たってさらさら音がした。
確か、備え付けのポットとカップがあった筈だ。
そう思って寝室に戻った。畳んだシーツの上に荷物がまとめてあった。締め切っていたカーテンも束ねられて、テーブルの上に置かれていた使い捨ての剃刀も今は見当たらない。
部屋に入ってすぐに、入り口の横のワゴンに置かれたサモワールと、横に敷かれたタオルの上に伏せられたカップを見つけた。
カップを脇にどけて、タオルをサモワールの下で支える。ゆっくり蛇口の栓をひねると、ボタボタと落ちる水滴がタオルに滲み込み、じんわりと手のひらが温かくなる。どうやらソケットも生きているようだ。
よし。
そう思ってビンの蓋に手をかけた途端、上から手を押さえつけられた。
「サモワールでコーヒーを飲むとは、郷に入れば郷に従えと言う言葉は君には無いようだ」
「いけないのか?」
「好きにすればいい」
そう言いながらもサモワールの栓を閉めた。
「俺はコーヒーが飲みたいんだが?」
「カルキ臭のする水道水だぞ」
「一度沸いた水なら何だっていいんだ」
ミーシャが肩で溜息をついた。
「・・・確か昔、こんなアネクドートを聞いたな。
酒場で、ビールを注文した所、ビールの中に蝿の死骸が入っていた…。
体裁を重視するイギリス人は
店に注意して新しいのを持ってこさせ、2杯分支払った。
フランス人やアメリカ人は
店に文句を言って新しいのを持ってこさせた挙句、金を払わず帰った。
科学的なドイツ人は
アルコールで殺菌されたと判断し、蝿を取り除いて飲んだ―――合理的だな?」
流石にむっとしたので立ち上がって睨み付けると、
「でかい体でドアを塞ぐな。洗面所に水を捨ててからペットボトルの水を沸かしなおす」
とうけ流された。
「分かったが、捨てるのはちょっと待て」
「何でだ」
「洗面所で顔を洗いたいからお湯が要る」
「………どこまでも合理的だな」
そう言って、床に落ちていたタオルを放り投げてきた。
サモワールを逆さにし、お湯を洗面器にあけるとほの白い湯気で鏡が曇った。
熱いお湯に手を漬けると、指先からじわりと痺れてくる。そのままじっくり手首まで浸かり、時々お湯の中で指を曲げたり伸ばしたりしてみる。その度に治まりかけた痺れが復活し、熱い湯の感触をうける。そのまま思い切りよく手ですくって顔を洗い、冷めてしまった微温湯は静かに排水溝に流す。
タオルで顔と濡れた髪を拭いてから、曇りガラスに映った自分の顔を見る。
少し目の下が浅黒くなり、唇と頬の紅が目立つようにも思えたが、さして気も留めず洗面所を後にした。
* * *
音を立ててお湯が沸いたところで、カップに少しだけ湯を注いで暖める。
両手で持っていると、カップから程よい温もりが伝わってきたので次の準備に移る。
温まった後のカップの中の水を捨て、底にインスタントコーヒーを入れてから静かに湯を注ぐ。
しゅわ、という音とほぼ同時で、白い湯気と共に仄かにコーヒーの香りが立ち上り、カップの中で液体がやや不明瞭にくるくると動き回る。
トレイの上に二人分のカップとソーサーを並べてから五秒迷い、冷蔵庫からミルク、食料品棚から角砂糖を取り出し片方のカップに落とし入れる。立ったまま軽く口をつけて味を確かめてから、台所のドアをスリッパを履いた足で閉める。
早く持っていかないと、折角いれたコーヒーが冷めてしまう。
枕元に近寄り、眠っていたのか丸めた体がこちらに寝返りを打った。ベッドの上の青い目がくるんと動いて視線が合う。
「砂糖は一個で良かったのか?」
「うん。ありがとう。君が入れたのか」
「飲むな?」
「勿論」
そういって、裸の腕をトレイに伸ばして一口飲む。喉をごくりと鳴らしてから、伯爵が喋った。
「美味しい」
「ならよかった」
「君が入れてくれたのだと思うと、なお一層美味しい気がするよ」
「そんなものかね」
自分もベッドに腰掛け、トレイを膝の上に置いて自分も味わう。
普段自分が口にするのと変わらない筈の味も、そう言われると、自分の飲んでいるコーヒーさえも普段よりもコクがあるような気がする。
普段通りの手順を踏んで作ったはずなのに。
隣に誰か居るというだけで、微量の変化が訪れる。
それは普段使わない金属の違いなのか、それとも場所柄お国柄の水の違いなのか。
しかしあの時味わったあの味は、おそらくもう舌は覚えていないはずだ。
向かい合って座り、テーブルの上にあの金色のサモワールがあった。飲みながら、どうしても目がそこに行ってしまうほどの存在感を持った湯沸かし器が。
「美味しかったか」と聞かれて、出来たのは曖昧に頷くことだけだった。
「美味しい」と一言返せば、また違う味だったのかもしれない。
それでも美味しかったという記憶だけは留まり続けるだろう。
今はもう、昔の話だ。
そして今日の味もまた、いつまでも覚えてはいられない。
特別な味を選ぶと言うことは、平凡を捨てるということ。
美味しいコーヒーを飲む時、いつだって余計な心配を強いられる。
END
これは最初はイラストで、と思っていたんだけど………サモワールって難しいのな。資料を探して画像を見つけた瞬間諦めました。
でもSSにするには短すぎる、ということで少佐×伯爵でも同じ様に書いてみようかと。多分時間にそう隔たりがあるわけでもなく、矛盾しているようですが、どっちを多く愛しているかとかは問題じゃなくって、ミーシャは頭で、伯爵は心で愛していると言うことで。無理は承知です。
ところで実はミーシャのアネクドートにはさらに続きがありまして、「ロシア人は気付かずそのまま飲んでしまう(爆笑)」だそうです。面白いなぁ〜。
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